兄弟の喧嘩で生まれたadidasの歴史

物販ビジネス

今日はアディダスの歴史とアディダスが買収したリーボックの歴史を紹介したいと思います。

アディダスの誕生

ドイツの靴職人のダスラー家に兄ルドルフ、弟アドルフが誕生しました。1920年に、兄と弟で靴製造会社を設立。

ダスラー兄弟商会が誕生し兄は販売、弟は生産を担当しました。

しかし1948年に、兄弟の意見があわなくなりダスラー兄弟商会を解散。

弟のアドルフはアディダス社を設立しました。

adidas(アディダス)の名は、アドルフの愛称アディとダスラーをつなげたものでした。

兄はというと、PUMA(プーマ)を立ち上げました。

川を隔てて設立した兄弟の会社は街を巻き込んだ競争に発展し、親がどちらの会社に勤めているかで入学する学校が決まり、サッカーの試合ではそれぞれの靴を履いて対戦したそうです。

アディダスと言えば3本線のラインで有名ですが、1951年に今もあるフィンランドのKARHU(カルフ)というスポーツブランドより登録商標の権利を譲渡してもらったそうです。

この権利、実は約1600ユーロとウィスキー2本で使用権をadidasが買ったというエピソードが残っています。

70年以降は、アドルフの息子である『ホルスト・ダスラー』がアディダスを運営していきます。

ダスラーの人脈でオリンピックやFIFAワールドカップなどの大きなスポーツイベントの商業化に大きな影響を与えたとされており、アディダスはスポーツ界で売上高世界一のブランドとなっていました。

1987年にホルストが亡くなると、親族間での経営争いがおこり世界一だったアディダスも低迷していきます。1993年に、フランス人の実業家、ロベール・ルイ・ドレフュスが経営権を握り、アディダスは黒字を取り戻し復活するのでした。

アディダスのスニーカーは、アスリートの足元を支えるために様々な研究をおこなっており、『世界一のアスリートに世界一のシューズを』という開発哲学をもとに製造されています。

ロンドンオリンピックではほぼすべての競技にアディダスのスニーカーを使用しています。

リーボックの歴史

1895年に陸上選手だったジョセフ・ウィリアム・フォスターによって立ち上がったブランドです。

ジョセフは靴底に釘を打ちつけたら早く走れるのではないかと考え、自身で作り試してみたのです。

すると想像通りの出来栄えで、他のアスリートからも作って欲しいと依頼が殺到したそうです。

1900年に、事業としてシューズを作る決断をし『J・W・フォスター社』を設立します。

『ランニングパンプス』と名付けられたスパイクシューズを履いた『アルフ・シュラブ』選手が3つの世界記録を獲得。イギリス中のアスリートに知れ渡りました。

そして1924年のパリ五輪でランニングパンプスを履いた選手が金メダルを獲得。

このストーリーはイギリス映画『炎のランナー』として放映され、実際にランニングパンプスを履いて撮影されたそうです。

これを機にさらに世界へと名をひろげていきました。

ジョセフの孫が社名をReebok(リーボック)に変更。

Reebokとはアフリカに棲む足の速いガゼルという動物の一種で、アスリートに最高のパフォーマンスをしてほしいと願う同社のネーミングにぴったりでした。

その後アメリカへ進出。

世界最大のスポーツ界で飛躍するきっかけとなったといってもいいでしょう。

1982年に発表した、エアロビクスシューズが全米でヒットし、リーボックがアメリカ市場で飛躍しました。1986年には、スポーツブランドとして全米ナンバーワンの売り上げを獲得し世界に誇る、スポーツブランドの地位を獲得しました。

まとめ

  • 兄弟の喧嘩でadidasとPUMAが生まれた
  • 沢山のスポーツ大会で活躍し、現在はオリンピックなどで活躍している。
  • アメリカでヒットしたリーボック

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