今回はフェラーリのライバル、ランボルギーニの歴史を見ていきたいと思います。
トラクターからスポーツカーの道
フェルッチョは、農家の出身であり、1916年、イタリア北部エミリア・ロマーニャ州の町チェントに生まれた。
少年時代のフェルッチョは農作業の手伝いを好まず、家畜小屋の片隅で機械いじりばかりしていた。ミシンや自転車の修理などはお手のものだった。
小学校を卒業すると鍛冶屋に弟子入りし、その後ボローニャに出て自動車整備工場に就職する。
知識と技能を身につけてチェントに戻り、自ら修理工場を開いた。
商売のかたわら、オートバイをチューンしてレースに明け暮れた。
第2次世界大戦が始まると、フェルッチョは徴兵される。
ギリシャのロードス島で自動車部隊に配属された彼は、そこでも自動車の知識を蓄えていった。トラックの整備をまかされたことで、ディーゼルエンジンの扱いにも習熟していった。
戦争が終わってチェントに帰ると、再び自動車修理工場を始めた。
主に手がけたのは、フィアット500“トッポリーノ”である。
イタリアは戦災からまだ立ち直っておらず、戦前型の自動車を直して乗る需要が大きかった。
それなりに成功を収めるが、フェルッチョは新たな事業を模索していた。彼が目をつけたのは、農民たちが使うトラクターである。
イタリアでは農業の機械化が進んでおらず、人力での作業が普通だった。
家畜のラバをつかって畑を耕すのがせいぜいである。大企業のフィアットでさえ満足のいく製品を供給できていない状況で、参入の余地があると考えていた。
1947年、フェルッチョは初めての製品となるカリオカを作った。
連合軍の払い下げ物資の中にモーリス製のトラックを見つけ、4気筒のガソリンエンジンを軽油で動くように改造してトラクターに仕立てたのだ。
安価で高性能な製品は評判となり、フェルッチョは1949年にランボルギーニ・トラットリーチ社を設立して本格的にトラクター製造を始めた。
1960年代には、ランボルギーニはトラクター業界のトップ企業に成長していた。
エンジンも自社開発し、製品のバリエーションを増やした。新規の事業にも挑戦している。
アメリカに旅行した際に近代的なライフスタイルを目の当たりにし、イタリアにも消費社会が訪れることを直感した。
彼は暖房機とボイラーの製造・販売を始め、見事に成功させる。暖炉でまきを燃やすのが当たり前だった時代だったが、彼の目は先を見通していた。
イタリアは、好景気に浮かれていた。
誰もが快適な生活を求めて消費に走り、製品は飛ぶように売れた。
戦災からの復興を果たし、街には物があふれた。フェルッチョ自身の生活も、見違えるほど豊かになった。
彼は、イタリアの“奇跡の経済成長”を象徴する風雲児だった。高価なスポーツカーも手に入れることができる。
マセラティを、そしてフェラーリを買って、スピードを楽しむようになった。しかし、彼はクルマの性能に心から満足してはいなかった。
ランボルギーニのスポーツカー生産の始まり
フェルッチョがエンツォ・フェラーリに会いに行き、邪険にされたことでリベンジのためにクルマを作ろうと思い立ったという説がある。
チェントからモデナまではごく近く、自らクラッチを買いに行ったのは確かなようだ。そこで、「200km/hまで加速してからギアをニュートラルに入れると滑らかに走る」と言い、ディファレンシャルギアがうるさいことを皮肉ったのも事実らしい。
1963年6月、チェントから近いサンタアガタ・ボロネーゼにアウトモビリ・フェルッチョ・ランボルギーニ(フェルッチョ・ランボルギーニ自動車)を設立する。
その年の10月、トリノショーに350GTVが出展された。
パワフルなスタイルが評判を呼んだが、生産に移すにあたってはモディファイが必要だった。
翌年のジュネーブショーに350GTが展示され、生産が開始された。
フロントノーズには、勇ましい闘牛をかたどったエンブレムが付けられた。
フェルッチョがおうし座生まれであり、自らをタフな闘牛に例えてもいたからである。
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