今日は投資の神様と呼ばれるウォーレンバフェットの人生についてお話したいと思います。
青年時代のバフェット
1930年、ネブラスカ州オマハで、ハワード・バフェットとレイラ・バフェットの息子として生まれた。
ネブラスカ出身の父は4期にわたってアメリカ下院議員を務めた人物で、株式ブローカーでもあった。
周囲の子どもたちが路上でボール遊びをしていた頃、バフェット少年は金融街の強者たちとかかわっていた。
ニューヨークを訪問中、バフェットは父親に連れられて、オランダ人のatmol氏と昼食をともにした
昼食の後、1人の男があらゆる種類のタバコをトレーに載せて運んできた。
Mol氏がその中から好みの葉を選ぶと、その男は葉巻を作った。
そこで、これだと思った。これが目指すべき高みだ。オーダーメイドの葉巻だと」とバフェットは当時を振り返った。
この瞬間、バフェット少年は、自分が金を稼ぐことに人生を捧げることになると悟った。
バフェットは11歳で初めて株を買った
バフェットは1株38ドルのシティーサービスの株を3株購入した。
その後株価は27ドルに急落したが、若きバフェット少年はそれを手放さず、1株40ドルに持ち直したタイミングで売却した。
その後、シティー・サービスの株価は最終的に1株200ドル近くまで高騰した。
この経験を通して、バフェットは今日に至るまで彼の投資判断の基準となっている。それは「買ったら手放すな」
高校生のバフェットはピンボールビジネスを始めた。
バフェットは古いピンボールマシンを25ドルで購入し、地元の理髪店のオーナーにピンボールマシンを店に置いて客が待っている間に遊び、そのお金を分けると、バフェットがオーナーに提案した。
2人は契約を結ぶことに成功した。
ピンボールマシンは人気となり、初日に4ドルも売り上げた。
2人は稼ぎを使い込まずに、新たなマシンに再投資した。
数カ月後、バフェットは街中の理髪店にピンボールを設置することに成功した。
翌年、彼はこの事業を1000ドル超で売却した。
ピンボールビジネスの他にも、バフェット氏は、新聞配達、ガムやソーダの販売、洗車など多数のビジネスを手がけた。
16歳のバフェットは5万ドル(600万円)の財産を手にしていた。
ニューヨークに移ったバフェット氏はコロンビア大学のビジネス・スクールに入学した。
バフェットは、1951年、修士号取得後にオマハに戻り、父親の証券会社、バフェット・フォーク・アンド・カンパニー(Buffett-Falk&Co.)で3年間働いた。
32歳でミリオネアに。
1950年代末までに、バフェットは7つの会社を立ち上げた。
そして1962年、彼はミリオネアになった。
バフェットは所有する会社を合併し、繊維業を営むバークシャー・ハサウェイに投資した。
1960年代初頭にバークシャー・ハサウェイの株を買い始め、最終的に経営権を握った。
バフェットの80年代
バフェットは、派手なマレットヘアやレッグウォーマー、ネオンカラーファッションなどにかかわる様々なビジネスを手がけていった。
1982年には3億7600万ドルだった純資産は、翌年には6億2000万ドルに膨れ上がった。
1986年、バフェットは56歳でビリオンネアになった。
まとめ
- 少年から投資を始め、今は投資の神様になった。
- 色々な方法で金稼ぎをして投資をしていた
- 32歳でミリオネア
- 56歳でビリオンネア
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